知多四国の楽しみ方入門 その1|知多半島だいすき20代オススメ!巡礼の魅力

知多四国とは

知多四国とは、新知多四国や知多四国霊場等と呼ばれる、知多半島に点在する弘法大師ゆかりのお寺を巡るコースのこと。

「四国八十八か所霊場巡礼」と言えば、四国をぐるりと1周回りながらお寺を参拝するものが全国的には、有名ですよね。

今回よりご紹介する知多四国は、この四国八十八か所霊場に感銘を受けて開かれ、小豆島(香川県)、篠栗(福岡県)と共に、「日本三大新四国霊場」の一つとされています。

知多半島を巡るといっても、スタートは知多半島の根もとである豊明市から。

そこから知多半島を右回りに一周しながら、途中日間賀島と篠島に寄り道しながらぐるりと回って、約194kmの旅路となります。

霊場と呼ばれる、お寺は八十八か所ありますが、巡礼は一か所だけでももちろん可能。

実はとってもお手軽に始められる、パワースポット巡りなんです。

知多四国の魅力から作法までぎゅぎゅっと詰まった3連載!

「パワースポットと言われても、わざわざ地元を回って楽しいの?」と思われる方もいるでしょう。

いや、地元だからこそ、回ってほしいんです。

わざわざ遠方まで出かけなくても、地元で「しっかり」楽しめるのが知多四国。

本記事より3回連載で、あなたのもとへ魅力をぎゅぎゅっとお届けします。

知多四国の成り立ちや弘法大師との繋がりから知りたい方は、ぜひ本記事から!

成り立ちとかはいいから、ご利益や巡礼作法が知りたい方は、以下のリンクにお進みください。

入門その2のリンク

入門その3のリンク

それでは本記事では、知多半島と弘法大師との繋がりからスタートしていきます。

平安時代に弘法大師が訪れた知多四国

令和の私たちの時代にも続く、知多四国。

きっかけは平安時代にまで、さかのぼると言われています。

この平安時代に大活躍していたのが、仏教僧の弘法大師(こうぼうだいし)。

弘法大師は小中学生の頃の教科書にも登場していた「空海(くうかい)」の没後のお名前。

日本史の中でもっとも有名なお坊さんのひとりとされています。

この弘法大師が、生まれ故郷である四国から、全国に仏教を広めるための旅をしていた途中、弘仁5(814)年になんと我らの知多半島にも訪れています。

このとき、弘法大師は三河から舟路で知多半島に訪れ、そのまま南下し、南知多町大井聖崎(ひじりさき)から上陸されたと言われています。

これは、いまでも聖崎公園の目の前の海原に「上陸大師」像として残されていますよね。

上陸した弘法大師は、あまりにも知多の風景が、ふるさと四国に似ていることに驚かれ、一句。

「西浦や 東浦あり 日間賀島 篠島かけて 四国なるらん 」

きっと、故郷を思って詠まれた歌なのでしょう。

今でもこの歌は、知多半島に受け継がれています。

その後、弘法大師は南知多町を回られた後、美浜町野間を経由し、陸路北上されて伊勢路に向かわれたと言われています。

知多四国の始まりは、江戸時代

そんな弘法大師とゆかりのある知多半島で、知多四国が始まったとされているのは、今からさかのぼること200年以上前。

江戸時代(1809年)のある晩、知多市古見の妙楽寺の36歳のお坊さん亮玄(30代前半までは亮山阿闍梨(りょうざんあじゃり)と名乗っていたそうです)。

この亮玄が、弘法大師の夢をみたことがきっかけだと言い伝えられています。

その夢の中で弘法大師は亮玄に、

「ここ知多は、わが悲願の宿縁の地。よってこの地に、知多八十八ヶ所の霊場を開き、有縁(うえん)の人々を済度(さいど)せよ。やがて二人の行者を遣わす。三人力を合わせてこの大業を成し遂げよ」

と、言ったそう。

なにやら少し言い回しが難しいですが、要するに「知多はいいところだから、そろそろ知多にも巡礼できる八十八か所のお寺を準備せよ。2人の協力者が現れるはずだから。」こんな感じでしょうか。

そして、不思議なことに目覚めた亮玄の枕元には、四国霊場のお砂が置かれていたそうです。

この夢を亮玄は幻ではなく、弘法大師からのお告げと捉え、知多四国を開くことを決意しました。

早速、亮玄は知多半島内に札所の設置のため奔走します。

まずは、翌日から四国霊場へと旅立ち、その後も翌年、翌々年も四国へと足を運びましたが、夢の中で聞いた「2人の協力者」はなかなか現れません。

さらに当時、知多半島には300のお寺のうち、弘法大師を祀っていた真言宗の寺院は30。

弘法大師とは縁のない50ものお寺に協力してもらう必要があり、断られる毎日。

亮玄は完全に行き詰まってしまいました。

そんな困り果てた亮玄に再び弘法大師の夢が。

この時すでに、はじめのお告げから10年が経過していました。

亮玄はこの2回目の弘法大師からのお告げがきっかけで、翌日ようやく2人目、現在の阿久比町の岡戸半蔵と出会います。

半蔵は農家出身で仏教に縁はありませんでしたが、妻子を失い、菩薩供養の日々を送っていたところ、亮玄に出会い、この大きな夢に感銘を受け、協力することに。

半蔵は自らの私財を売って大師像を作製したと言われています。

これが亮玄の力となり、共に各寺院を回り、さらなる協力者を募っていきました。

その後、亮玄が四国巡礼の際に出会っていた武田安兵衛が知多半島を訪れ、再会。

安兵衛も弘法大師と同じように、地形が四国に似ていると感激し、亮玄の夢、知多四国の開創への協力を誓いました。

これで、ようやく弘法大師が始めて現れた夢で言っていた、「2人」の協力者がそろい、さらなる準備へと取り掛かります。

この時亮玄は決意新たに名を改め、亮山に。

その翌年、あの夢を見てから15年目に、八十八か所の協力してくれるお寺が集まり、各お寺へ弘法大師をご本尊として納め、知多四国は開かれました。

知多半島には知多四国以外にも巡礼のルートが

知多半島には、名前が似ている巡礼ルートがいくつかあります。

少しややこしいですが、すべてこちらの知多四国とはまた別のものなんだそう。

それぞれ祀っている仏さまが違ったり、宗派が違ったりさまざま。

いろんな種類があるけれど、知多半島で一番有名なのは、知多四国。

そのためまずは知多四国の巡礼から始めることをオススメします。

魅力がいっぱいの知多四国巡り

作られてから200年以上経ってもなお、たくさんの方が訪れている知多四国。

お告げを受け取った地元のお坊さん、たったひとりから始まった、と思うとなんだか少し身近なものに感じませんか。

亮山阿闍梨の思い、弘法大師の思い、それに感銘を受けて協力した方々の思い。

たくさんの人の思いが詰まった知多四国は、現代に続くパワースポットになったのです。

次回以降まだまだ、知多四国の連載は続きます。

その2では巡礼のメリットその3では巡礼のマナーなどをちょこっと深堀り、そして現代流にお伝えいたします。

ぜひ、次の記事も最後まで、みなさまにお読みいただけますように。

今日も心穏やかに、過ごせますように。

ここまでお読みいただきありがとうございました。